自動販売機が似合う人

自動販売機が似合う人

2026.1.7

アナログとデジタルの融合については、ここ数年多く語ってきた。

海外記者との対話では、「あなたは伝統や歴史を踏まえながらもエクストリームしているね」とよく言われる。

以前、雑誌のPen内の対談でNIGO®Ⅱ氏がこんなことを言っていた。

「伝統とは当時の革新」

私も全くその通りだと思う。

当時エクストリームした革新的でかっこいいものが流行となり、それがシンプルで土着的であればあるほど長きにわたって残ってきたということを、現代で経験として理解している。

現在43歳の私が思い浮かべる自動販売機はごく普通の自動販売機で、お金を入れてボタンを押せば飲み物が出てくるシンプルなものだ。

そのシンプルなプロセスのなかにも、できればこの方がいいという雰囲気はある。

例えば、お札を無音で挿入するより音を立てて小銭を入れた方がいい。

ボテボテと鈍い音でペットボトルが落ちてくるよりガコンと缶が落ちるのがいい。

左手は出来ればポッケに入れておくのがいいなど。

 

私が自動販売機が似合う人でいたい理由は明確にある。

以前の私は、何かに追われているような、何かを追っているような、呼吸の浅い忙しい毎日を送っていた。

事細かに説明もできるが、長くなるのでやめておく。

誰にやらされているわけでもないのに、自分の頭で作り上げた恐ろしい環境に身を置いていたため、水を飲むこと、髪や爪を切ること、ゆっくり風呂に浸かること。こういった自分のご機嫌とりがまったくできていなかった。

当然、自販機に寄るどころか、自販機が視界にすら入っていなかった。

 

私は、美味しそうな匂いを嗅いだ時に「お腹空いた」と言わずに「いい匂い」と言う。

これは何かというと、外的要因に反射的に反応してしまい、本来の自分の状況を一変させてしまうことを防ぐ、もっとも簡単なトレーニングだ。

美味しそうな匂いを嗅いだらお腹が空くのではなく、匂いがなくてもお腹は空いているのだ。

特に視覚情報に反射的に反応してしまうのは、他の誰かが自分の人生のハンドルを握っているのと同じだということを忘れないでいたい。

自販機が目に入ったから喉が渇く生き方ではなく、喉が渇いたから自販機を目指す生き方をしていたい。

大切な自分のために水分補給をしようと思ったら自販機に向かう。

自販機の前に着いたら右手でポッケから多めの小銭を掴み、1枚づつガチャガチャと入れる。

コーヒーでないコーヒーとボテボテと音のなるペットボトルは避け、缶のコーラかネクターかアンバサのボタンを押す。

ガコンと落ちてきた缶を拾い上げ、プシュッと開けて飲む。

大抵の場合、歩きながら飲むため、後になればゴミであり、軽く水で流したら次の収集日をチェックしてしばらく共存することになる。

自販機と自分、小銭と缶。

この至ってシンプルな関係は、前、今、後、と日をまたぐ物語となる。

自販機の前に立つ後ろ姿というのは、なんとも情緒に溢れている。

 

自動販売機が似合う人でいるということは、自分の人生のハンドルを自分の手でしっかりと握っている人であるということなのだ。

Reita MORIYA