太陽のまばたき

太陽のまばたき

2026.1.8

藍に携わる前と後では、空や青への興味が大きく変わった。

藍に携わる前から空や海、状況によって青く見える山とは深く関わってきた。幼少時代から鵠沼海岸の海でサーフィンしてきた私は、空と海のはざまに浮かびながら陽が昇り富士山の方へ沈んでいくのを幾度となく見てきた。季節や天候によって様々な色を見せてくれる。

自然と深く息を吸い込むほどに綺麗で、心が洗われる美しい景色だ。

藍に携わるようになってからは、今までと同じ心境に加えて「なぜ青いのだろう」と不思議に思うようになった。これは藍という緑色の植物から化学反応によって藍色の色素が生まれることに大きく影響を受けている。私の場合、藍の業界では異端児で沈殿藍というドロッとした絵の具状のもを左官材に混ぜてアート制作をしている。(もちろん藍染もするが、、、)左官技法は独学で始めてベルギーで学んだこと、藍との出会い、そこまでに起きた神の仕業とも思えるいくつもの失敗など、運命的な事柄についてはまた別の機会に話したいと思う。ヨーロッパのなかでもベルギーだけにある技法や、徳島で習得した高純度沈殿藍の抽出法など技術的なことも別の機会に。

私が自身のアート作品と空の青との親和性を垣間見る時、それは左官材に含まれる粒子(骨材)、顔料としての粒子である沈殿藍がバインダーの役割をする樹脂と混ざり合い、一連と波となることで人間の視覚構造における青(藍)の捉え方が空や海を捉えるのと限りなく近い状態を生み出していると感じるからだ。もちろん光の存在あってこそのことだが、障子を通した光が霧のような柔らかな光になるのと同様に多孔質な左官材には粒子や微細な細孔があり、光が何度も反射と屈折を繰り返すことで最終的に様々な方向に散らばっていく。この光学効果、拡散効果により、空や海を見ているように深く吸い込まれ長時間見ていられる。

空と目の距離と、アートと目の距離がちょうど一致している感じだ。

瓶の中に空を閉じ込めたかったレオナルドダヴィンチやソシュールが私の作品を見たらどんな言葉を残したのだろうか。

 

青への深い関心で、青空や夜空を観察する時間がとても多い。太陽の眩しい広大な青空を見ていると、そこに対象物が無いのに

なぜぼやけずにピントが合っているのか、また光の光線は白という言葉ではとても表現できないが透明でもなく「光」という色が必要だと思ってみたり。夜空を見れば、その色は到底黒とは思えず限りなく黒に近い藍色だと思ったりする。

そういった不思議を手の届くところで観察するため、自身のアート作品に光を当てたり太陽光にさらしてみたりする。

 

この夜空の黒に見える作品の一部は、所見の人には黒に見える。

しかし、一筋の白(光)が介在することで今まで黒と認識していた部分が突如藍色に変貌する。

黒に光を当てても黒のままであることを考慮すれば、やはり夜空(宇宙)は深遠な藍色なのだ。

淡い藍色の部分は、白い粒子に混ざる藍の粒子の量が少なくなっていることに要因する。

白い部分が太陽からの直接的な「光」とすると、その中心は白(光)で離れるほどに青く濃くなっていくのがわかる。

太陽の眩しい青空は、太陽周辺の青は淡く太陽から離れると濃くなっていく。地上付近でまた淡くなっていくのは地球の70%を占める海の反射が影響しているのではないか、、、。

目と太陽の間にも充満しているはずの青が、太陽の手前では青くなく白(光)いのは、光が強すぎると我々が認識できている色自体が不在となるからである。

 

今朝、アトリエの庭に出て眩しい太陽に目を細めていると、まつ毛に反射する光が虹色になっていることに気が付いた。

まばたきの寸前に現れる虹は、太陽が沈む際に見せる虹色のグラデーションと同様である。

Reita MORIYA