消防車と母子

消防車と母子

2021.1.20

消防車と母子

 

 ある朝、どんよりとした曇り空、雨の小休止。目黒通りを車で走っていたら消防署の隊員達が朝の点検をしていた。

 たまに見かけるこの光景は、きっと赤灯やサイレンなどの不具合を確認するためだと思う。特段視界に入った程度だったのだが、今日は首を深く右に向けた。

 少し派手な髪色のお母さんが、小さな子を抱っこしながらたまに見かけるその光景を見ていた。見るにたまたま通りがかったというよりは、わざわざ見に来ているようだった。お母さんが指を指しながら何度も我が子を見て、よかったね。かっこいいね。と言ってそうな様がそう思わせた。

 なんとなく微笑ましいなと思い、僕も笑顔になり山手通りを曲がった。山手通りに出ると同じ風貌のビルや建物が両サイドに立ち並ぶ。小さい頃ってなんで消防車やパトカーが好きなのだろうか、絵本やテレビに出てくるから?いや、でも自分がワーゲンバス乗っている頃はよく小さな子供らに指さされたり、手を振られたりした。

 やっぱり目立つし珍しいからだという答えに一旦落ち着かせ山手通りを走り進んだ。人は皆平等に子供だった。誰かに抱っこされてそれらを見る一コマもあったはずだ。しかし、いつからか消防車に目を輝かせることを忘れ無気力に右ならえとなっていく。

 そんな事を考えていたら、急にパリのパレ・ロワイヤルを歩いている時に見た一枚の絵のような景色が頭の中に飛び込んできた。記憶障害と言っても過言では無いほどの僕が、今でも鮮明に覚えていて、しかもその時の感情まで記憶しているのは、この景色を見た時にそれまでぼんやり抱えていた疑問が晴れて自分の中できちんと納得できたからだと思う。

 日本が一番だと思い込んでいたおもてなしの精神が覆るほど、ベルギーやフランスで共に過ごした人々に一番感じたのは圧倒的なホスピタリティだった。いつも笑顔で明るく、白夜も手伝ってなのか、ゆっくりとした時間の流れの湘南育ちの私をせっかちにしてしまうほどの時間の使い方。勝手に想像していた"それ"とはかけ離れた国民性に少しの疑問を抱いていた。

 パレ・ロワイヤルを歩いていた僕が立ち止まって深呼吸したのは、景観が人々の心を豊かにする一つなのだと実感したためだった。

 舗装されていない白と薄茶色の綺麗な砂利道、両サイドに整列する10メートルほどの濃い緑、綿菓子のかけらが浮かぶ青い空、遠く奥にそびえ立つ石工建築。

 砂利道の音、鼻から入る綺麗な空気、目に気持ち良い緑とその影、とても大きな歩道、

それらは五感すべてをリラックスさせた。

 山手通りに限った話ではなく、代わり映えしない景色や建物が多い日本。たくさんの要因が混在して出来上がる白黒の街並み。大人たちがつくった社会は子供の感性を奪い、大人たちが牛耳る業界は客と職人の距離を遠く引き離す。

 手を使うものづくりは、無力と思えるほど小さな存在かもしれない。でも、その一つ一つが必ず誰かを幸せにして、必ず大きな何かに繋がっている。サグラダファミリアだって完成の日はあるのだから。

 職人として、材料、技術、美の探究は生涯続いていくが、子供たちや若い世代により多くの選択肢を与える重要な役割もあるということを忘れてはいけない。

 僕たち大人は、消防車が好きな子供を抱っこしてわざわざ見に行くことを、ずっとやめてはいけない。

 

 自分がよく受ける質問に、今の仕事はいつからやっているのですか?何年目ですか?下積みはどこでしていたのですか?などがある。せっかくの機会なのでこの場を借りてお答えすると、会社の設立は平成18年で14年目、鏝(こて)を持ったのは4年ほど前で独学のため下積みはしていない。

 日本でいうところの左官は伝統技術であり、よく聞くのは弟子入り(入社)して3年は手元作業で鏝は持たせてもらえないという。僕は鏝を自分の意志で持った日からプロとしてやってきた。自慢でもなんでもなくただ夢中になれただけだ。結局のところ、人を幸せにするという目的の一つの手段が鏝を使ったモノづくりであり、たまたま僕が好きで夢中になれたのがこれだったという話なのです。

 当然、初期につくったものは土佐周りして全て無償でやり直させてもらい、絶対に埋められない「時間」の差を少しでも埋めるため右手の人差し指は左手より大きくなった。

 幼少期からたくさんの事に興味があり、飽きっぽかった。かっこいいものやかっこいい音楽が好きで、見つけるのが大好きだった。でも、それらが流行るとかっこ悪く感じて次に行くといった風だった。言い訳みたいになるが、僕の今のスタイルは幼少期から確立されてしまっていたのだと思う。幼少期からずっとこのままだったらきっと良かったのだろうが、僕にも闇の時代はあった。そう、消防車が見えなくなってしまった時代。

 

 当時18歳だった僕は、10歳ぐらいではじめたサーフィンでプロを目指していた。ガソリンスタンドで夜勤のバイトをして、朝方バイトが終わるとサーフボードを積んだ車で波のある所へ行き体力の限界まで海の中にいて、また夜勤して、、、を繰り返していた。そんな生活が正しいのかわからなかった。まわりは大学や就職の話題で盛り上がり、僕は希望と不安でもみくちゃになっていた。

 そんなある日、自営業を営む父親が体調を崩し入院した。重機に乗る現場作業の仕事でプレイヤーだったため人員不足となり、僕が借り出されることになった。夜勤のバイトを急にはやめられないため、昼夜働きサーフィンをする時間は当然無くなった。

 一瞬無気力になったが、サーフィンでプロを目指すことが正解なのかわからなかった僕は、気持ちを切り替えて子供のころに何度か連れて行ってもらった現場に夢中になるよう努めた。小さなころから職人さんたちが身近にいる環境で育ったため結構楽しめたし、なにより重機に乗れるのが楽しかった。

 父親が現場復帰した頃には、戦力として活躍できるよう段ボールで作った重機操作のレバーで夜な夜なイメトレするほど夢中になれていた。

 19歳になった頃、仕事量が不安定になり神奈川から埼玉への出張が続いた。日々の経費も嵩むため、平日はいよいよ埼玉のアパートでの共同生活がはじまった。遊び盛りの19歳がおじさんたちと昼も夜も一緒というのはさすがに堪えた。飯当番や洗濯当番が嫌だからとダラダラ現場をこなし遅く帰ってきたり、体臭がきつかったり、毎晩武勇伝を聞かされたり(笑)。ある意味、相当鍛えられた。

 同級生たちは免許を取り、車を買い地元で大いに楽しんでいた。僕はといえば、泥だらけで働き共同生活をし、週末だけ地元に帰るが疲労がすごくなにもできなかった。せめて好きな車ぐらいはと思い買おうとしたが、親の事情でローンすら通らなかった。年齢的にも親に反抗したいことがいっぱいだったのかもしれないが、僕は親が落ち込むぐらいならと、車はいいのが見つからないと言い訳をして濁した。

 それから二年半が経ち、技術的にも一応は一人前となり、同時に埼玉での生活に限界を感じていた時、たまたま入った東京での現場で元請けの会社から高評価を受け、東京と神奈川エリアに戻ることができた。これを機に独立し、会社を設立した。

 よく、若いうちから会社やって凄いね~なんて言葉をかけてもらうのだが、これに関しては全く凄くなんてない。埼玉の時代から苦楽を共にしてきた二つ下の相棒の存在が大きかった。彼は僕からの無責任な誘いに二つ返事でついてきてくれた。

 彼は一人っ子で、母親と二人で暮らしていた。僕自身も彼の母親にはかなり世話になって生きてきた。その母親が個人事業の僕みたいな奴について働く彼を心配しているのを聞いて法人にした、その程度のことなのだ。確かに建築業界にも変化があった時代で、法人じゃないと取引できない規約なども増えていた。さらに付け加えるなら、会社法が変わり資本金を大して用意しなくてもよかった。

 親の事業は決して“きれい”とは言えるものではなく、僕自身もトラウマだった。だから法人にしてきれいに運営していくのは嫌じゃなかった。しかし、同じ組織体の事業できれいじゃなくなるのは時間の問題だった。

 大手の孫請け、仕事がない時の保証は無いうえ、他の仕事に手を出すことも許されなかった。所謂飼い殺しのような状況に陥った。ただ、井の中の蛙の僕たちはそんな中でもここで生きていくことを疑わなかった。

 僕の父と母は離婚した。母はパニック障害という病を持っていたため、離婚はしたが生活に必要な資金は父と僕とでみていた。結局お金はどこかに消え、病のせいでごみ屋敷と化していた家もどこかへ消えた。

 小さな頃から父に「人の敷いたレールには乗るなよ」と教えられていた僕は、知らぬ間に敷かれてもいないレールの上をフラフラと自分から乗っていたのだ。なぜなのかは分からない、選択の積み重ねという他ない。19、20歳ぐらいで僕を生んだ両親、当時はまわりから猛反対されたらしいが二人で飛び出し生んでくれた。小児喘息だった僕を若い二人は一生懸命育ててくれたのだろう。7歳になるまでは一人っ子だった。

 僕はクウォーターで、父親はアメリカと日本のハーフ、母親は沖永良部島系の日本人だ。

 父親は2歳ぐらいでアメリカ人の祖父と生き別れていて、母親は小さな頃に父を亡くし片親で育っていた。母は昔話や苦労話を決して僕にはしなかったが、父はそんな話をよくした。

 横須賀のネイビーだった祖父と、横須賀のどぶ板通りの飲み屋で働いていた祖母が知り合って、5人兄弟の末っ子として生まれた父。種違いの兄二人、姉二人、全員ハーフそんな具合だ。2歳で生き別れた祖父の記憶はなく、化粧くさくていつもいない祖母のことをマーミと呼びいつも話してくれた。

 マーミも父が小学生低学年の時に亡くなってしまったらしい。その後はとんでもない不良の兄弟とマーミのお父さんとお祖母ちゃんだと思っていたお祖母ちゃんじゃない人と生活保護の状態で暮らしていたそうだ。何度も聞いてきた僕の頭の中は整理できているが、お気づきの通りとても複雑な家庭環境なのです。ここに書けない事だらけなので端折ります。

 僕が物心ついてきたとき、自分の父に何かわからないが何かが足りない気がしていた。先の話の通り、親などから本来受けるはずの愛情が足りないからじゃないかと思い、僕は父が生き別れていた祖父を探すことに決めた。今でこそフェイスブックなど使えばすぐに見つけることができるが、当時は国際電話で手あたり次第といった感じだった。

 実家に残っている手掛かりは、何通かの手紙とそこに記してある電話番号だった。カリフォルニアに住むポールベネットさんに片っ端から電話をしまくるも、一向に見つかる気配はなく、電話料金の明細に載ってくる国際電話料金の項目のおかげで妙な疑いをかけられる始末。ある日、もう一度手掛かりの手紙を見直してみると住所らしき記載があるのを発見した。その住所宛に“日本からのとても大切な手紙です”と書いて発送した。

 返事もなかなか来ないし熱量も下がってきた頃、1通の見慣れない手紙がポストに届いた。

 あまり記憶も無いが、英語辞典を見ながら必死に訳した。そこに書いてあったのは祖父本人からのメッセージで、僕が出した手紙がレイクエルシノアという祖父が以前住んでいた家に届いたらしく、そこに現在住んでいる方が“日本からのとても大切な手紙です”を見て前住人の祖父を探し届けてくれたとのことでした。そして、とても会いたい、愛してると書いてあった。

 そこからの動きはとても早かったが、父は祖父の現在の家庭にとって迷惑ではないかと当人ならではの心配をしていた。祖父は日本を離れた後、カリフォルニアに戻り新しい女性と初めての結婚をし、男2人女1人の子を授かり生活をしていた。

 アメリカに到着した僕たちは、ドキドキしながら空港を出た。大勢の人混みの中から初めて見るのに、本能的にすぐに血の繋がったアメリカの家族を見つけることができた。そこからはご想像通り涙なしでは語れないとても感動的な映画のような再開劇でした。空港から祖父の家に向かう父の表情は、感動と不安が入り混じる何とも言えないものだった。

 初めて一緒に過ごす夕食、皆で食卓を囲みアメリカっぽくお祈りをした。するとアメリカの長男と祖父の奥さんがおもむろに一つの椅子を持ってきた。そしてこう言った「私たちははじめからラリー(父の名)のことを聞いていた。食事のときは必ずあなたの椅子も用意して、皆でお祈りをしていたのよ」と。

 父の心配はカリフォルニアの空のように晴れ渡った。

 

 日本に帰ってきてから痛烈に感じたのは、人は変えられないということだ。足りない何かは埋められたかもしれないが、勝手に期待する何かが変わるということはない。でも、カリフォルニアの家族と会えたことは自分のためにも本当に良かったと今でも思う。明るく楽しい祖父母、叔父叔母、10人ぐらいのいとこ達。今では毎日のようにフェイスブックで顔を合わせることができるし、コミュニケーションもとれる。カリフォルニアの祖母は本当に温かい人で、血よりも濃いもので繋がっていると特筆しておく。

 

 フラフラとレールに乗っていたのは、生まれてから今までの全てが僕をつくり上げているということと、僕の非常に身勝手で無責任な思いやりのせいなのだ。しっかりと自分と向き合い、意思決定し考え方を少し変えるだけで人生は大きくレールを外れ、自分で自分が進むレールをしっかりと敷くことができる。

 

 今回のエッセイなんか少し重いかな?色々と書き綴りましたが結局のところまぁ、いいのです。僕自身はクウォーターで損したことないし、僕らの親世代のハーフは差別問題など色々あって、そりゃぁ大変だったでしょう。だから僕は、ハーフやクウォーターの人に会うと見た目がどうのってことより生い立ちが気になるし、苦労とかがなんとなくわかっちゃうのです。

 さて、自分のレールを敷いてあとは汽笛を鳴らして発車するわけですが、衝撃の出来事が起きた。僕がもともとやっていた事業の同業者の大先輩、それこそ親会社の創業時から一緒になって協業してきた大先輩が突然切られたのです。

今振り返れば、年齢的にも厳しかったし、持病のせいで車の運転も危なかった。親会社も相当悩んだ末の苦渋の決断だったのだろう。正しい決断だったと思う。しかし、当時の僕はシンプルにここで頭打ちなことをしていたら将来は苦労しかない。どれだけ貢献したところで、切られた瞬間に終わりだと感じた。

 自分はもちろん、二つ下の相棒の為にも新しいステージを僕が準備して“その時”が来たら登れる階段を用意しなくてはならないと決意した。頭のおかしい僕がそれから新しいスタートを切ったということは大変な事態と苦労が待ち構えていた。

 それでもやるしかない。レールはイメージだけして、汽笛を鳴らして走り出すのは今だ。走り出せばまた、消防車が気になるから。

もう大人だから、抱っこされなくても見に行けるのです。

Reita MORIYA