2025年も残すところあとわずか。
スケジュール帳を開き、記憶を遡る。
私自身の行動として色濃い節目となったのは、2月18日に開校した「Pinyon Jay School」であろう。
縁あって、2022年から多くの教育現場に携わることになった。
"縁"という言葉を用いたのは、単なる仕事の在り方ではなく、文字通り縁がそうさせたからである。
普通であれば「ゴール」という舞台を、私はスタート地点と捉え、挑んだ出来事があった。
今思えば、なにか大きな転換期だったように思える。
Pinyon Jay Schoolを開校して10ヶ月程度だが、現在の生徒数は10名、卒業生は1名。
最初の卒業生は香港出身、カナダ育ち、ベルリン在住という海外からのお弟子さん。
開校していなければ出会うこともなかった人間に出会えることは、私の人生にとって宝である。
師弟関係において大切なのは、共に多くを学び、多くの時間を過ごし、同じ空間に共存し、ひとつひとつの小さな経験を積み上げていくことにあります。
そしてなにより、その関係は永続的であり生涯を通しての問いとなるのです。
そして時には、師の教えを批判し、自分の主張をするのです。
経験を通して、自分のなかに明確な主張が芽生えたなら、批判を愛することが出来ます。
将棋の歩でさえ、成れば"と金"になり。
かのアレクサンドロスがアリストテレスへ宛てた批判の手紙も「ご健勝のことと存じます———敬具」となっており、そこには敬意と愛を感じることが出来ます。
愛のない批判は、完敗の意思表示なのですから。
私は、11名の生徒と過ごす中で、ある共通の感覚と傾向を発見しました。
それを御幣を恐れず言葉にするならば「純粋な動機不順」
一見相反するこの言葉は、それぞれを端的に捉えるのではなく、大枠の全体像として捉えることで真意が見えてきます。
感性と理性といった混じり合うことが難しいものが、同時に存在しているのです。
感性において惹かれる純粋さと、理性において門を叩く動機不順。
藍や伝統、日本の持つ美的感覚を学びたいという動機は、人それぞれの心の内にある「なにか」を外へ投影する表現の秘儀を知りたいという純粋さがイデアとして確かに存在しているのです。
なので、生徒は皆、藍色に包まれたアトリエで自身の内にある景色を目の当たりにし、安心感を得ると同時に、自分の内にある魂や心、あるいは霊的なものに触れるのです。
逆に言えば、言語化できない自分の内に感じていたものを圧倒的に、そして直接的に見ることになります。
物質的な世界において、藍染、藍のアート、藍の農業と、身体を使い、知恵を養いながら学ぶ。しかし、藍はそんな物質世界においても、光と闇、生と死、癒しと覚醒、神秘を与えてくれます。
そうした経験を積む中で、藍を通して、愛を知ることとなります。
生徒さんはトップアスリートやプロのデザイナー、ヒーラー、公務員、主婦、ライフコーチ、講演家など、社会活動では様々な顔を持っています。
しかし、彼らが得ようと試みる姿勢には、通ずるものがあるのです。
私自身、藍や青を通して世界史、人類学、物理学、色彩論、宗教、哲学に興味を持ち、まだ探求の旅の途中です。
さて、今年携わった学校を振り返ってみる。
慶應義塾湘南藤沢中等部
藤沢市立大鋸小学校
藤沢翔陵高校
本郷台小学校
横浜国立大学教育学部付属横浜小学校
横浜国立大学教育学部付属横浜小学校
藤沢市立亀井野小学校
文京学院大学女子高等部
文京学院大学
アオバジャパン・インターナショナルスクール
未来をつくる子供たちに多く関われることに感謝しています。
また、純粋な子供たちから多くを教わっているのは私の方なのです。
体験を通して信頼関係を築き、座学でその歴史や本質を学び、対話において答え合わせをしていきます。
答え合わせとは、絶対的な一つの答えに、対立する双方が歩み寄るまたは、妥協することではありません。
自分の経験から成る主張と相互関係にある相手の主張を尊重し、答えを合わせていく事を言います。
これを純粋な小学生と、固定観念に囚われていく40代の私が真剣に取り組むのですから、授業の後半は哲学的になっていきます。
無論、小学生に哲学という言葉は理解できないでしょう。しかし、彼らはあるがままにそれを知っているのです。
横浜国立大学教育学部付属横浜小学校の三年生との対話で「愛を知する」という言葉が生まれました。
本来の言われは「知を愛する」ですが、もしかすると愛を知するために知識を追求する姿勢なのかと、考えさせられています。
藍で哲学する。
私の場合、小学生の頃から藤沢市にある鵠沼海岸を拠点に国内外の海でサーフィンをしてきました。
多くの時間を海と空の境界線に身を置いて過ごしてきました。
藍という探求の旅にでるまでは「綺麗な空」だったものが、「空はなぜ青いのだろうか」に変わってしまった。
夜空(宇宙)は黒なのか?本当は限りなく黒に近い藍色なのでは。
もちろんこれらは、紀元前から現代に及ぶ長い歴史のなかで紐解かれていくのだが、これもまた批判されその解釈は塗り替えられていく。
レイリー散乱、光の影、プリズムうんぬんかんぬん言いたいわけではない。
私は自らの芸術からこれらに疑問をもち、あらゆる学問の知恵を学び追求している。
作品と対峙している時に人生の大切なことを学んだりもする。
いま、自分が制作した藍色の作品に囲まれながら文章を書いている。
ふと作品に目をやれば、やはりそれらは自分の内にあるものの投影(視覚可)であり、もともと知っていたものを思い出す行為に他ならない。
視覚構造から物質的な青を見ているが、どうにも身体の内にある青に無言で語りかけてくる。
生きる時代も国も身体も違う我々だが、なぜ同じように深遠な青の無言を許せるのだろうか。
それは、私たちがもともと知っている青を、そのかけらを、自らの内に持っていることが影響しているのではいないか。
蝋燭の灯(ともしび)のように、今にも消えてしまいそうな、透けた青い揺らぎが、私たちの中にあることを忘れないようにしたい。
私たちは、産声をあげた瞬間からあらゆる影響のもと生きていく。
どこへ向かうのか。
産声をあげる前の、言葉も表情もない、あの無限に広がる、黒い藍色の宇宙に浮かぶ青い球体になるまで。
言葉の知恵が消滅した場合、虚無とは永遠の喜び。
空が青いのは、ここが地球で、私たちが人間だからです。
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